とんでもないこと、できればよかった

2023/06/02

日記

 ・もうあいせない

10代のころ父に「Twitterって知ってるか?」ときかれて、「なにそれ〜!」とはじめてから10年ちょい、アカウントを増やしたり消したり変えたりしながらつづけてきた。書くのがすきだった。おもしろいひとと繋がれるのがうれしかった。でもここ数年のTwitterはかつてわたしのすきだった様子とは変わっていて、なんだかもうかなりつかれてしまった。変化してゆくのは当たり前なんだけど、もうあいせない。バズるとかバズらないとか、拡散されるとかされないとか、そういうのに振り回されて、勝手に消耗している。心を削ってまでやる必要があるのか。どう考えてもないだろ。インスタグラムがあるから…と思っていたけど、インスタグラムもなんかすきだったときからちょっとずつ変わってて、インターネットでさえも居場所がどんどんなくなってゆくのを感じる


・それでも私は生きていく

新宿にてそれでも私は生きていくをみてきた。レアセドゥうつくしかった。メルヴィルプポーもうつくしかった。ひと席開けて隣にいらした、おそらく男性の方が時折お髭をじょりじょりさする音が気になった。

5月はかなり映画館へ行っていた、シン仮面ライダーもみにいったし、動くな!死ね!甦れ!もみにいったし、オトナ帝国もみにいった


・レンズキャップ

映画のあとコーヒーを飲みたくて、タイムスが激混みで、珈琲西武に行ったら珈琲西武も激混みで、それならたばこが吸えるタイムスに並びましょうかね、と思ってタイムスにちょっと並んで入る。なにか食べますか?と自問するも食欲がなくて、散々悩んだ末にアイスコーヒーのみ発注。アイスコーヒーを飲みながら、日記をチミチミ書き、たばこを吸い、ぼんやりする。店内が混んでいたのもあって、ちょっとずつ大丈夫ではなくなってしまってゆく感じがして、頓服を飲む。持ってきた本ももう読んでしまったし、帰ろう、帰ろう帰ろう、と退店。山手線が遅れていて、平日の夕方にもかかわらず激混みで、脳みそがちいさく爆発してゆく。人混みをかき分けて高田馬場で降りたとき、カメラのレンズキャップが電車の床に落ちる音がした。一旦降りてキャップを探して拾おう、と思ったけれど、乗車してゆく人混みに飲まれてわたしのいたいけなレンズキャップは拾えなかった。もう一度乗り込むことを考えたら視界がぐらぐら揺れた。あきらめて山手線を見送り、ホームを後にする。ごめんねレンズキャップ。一緒に帰りたかったよね。一緒に帰りたかったんだよ。ごめんね。駅員さんに落とし物をしてしまったと相談しようか悩むも、すでに体調の悪さがマックスに達していて、これ以上人混みの中でひとと上手に話すことができそうになかった。ごめんね。


・「大丈夫」の謎

説明しづらい。人の気配や話す声や音がだめになってしまう瞬間があって、そうならないように、そうなりそうだな、と思うときは薬を飲むようにしているのだけれど、ものすごい速度で思考回路がプツプツ途切れたり、嫌な記憶がフラッシュバックしたりすることもある。説明しづらい。別にわたしは大丈夫なのかもしれない。でも、大丈夫なら、レンズキャップも拾えるし、拾えなくとも、近くのひとに「床に落ちている黒い丸いプラスチック拾ってもらえませんか」と声をかけることもできたんじゃないだろうか?駅員さんに相談もできたんじゃないだろうか?わからなくなる。わたしが大丈夫ではない気がする状態になったとき、わたしはだれにも助けを求められない


・「ひとりで悩まないで」が重石のよう

精神科の先生が代わって、あんまり上手に話せなくなった。気がする。カウンセリングはつらすぎて結局中断したままだ。じぶんと向き合うのはくるしい。良くなっているのか、悪くなっているのか、そもそも別にそんなに悪くなんかなってないのか、甘えているだけなのか、わからない。なんにもわからない。近いうちに「福祉さん」のところへ行かなければいけないのだが、じぶんのこと、病状や生活、人生について聞かれたらどうしよう、という恐怖でずっと先延ばしにしてしまっている。じぶんのことを話すのってくるしい。わたしが話すべきことや話したいことに、わたしが追いつけない


・レンズキャップ喪失後①

レンズキャップを失って、おうちに着いて、落ち込んでしまった。落としたレンズキャップの代わりに、きのう久しぶりに食べたハーゲンダッツの蓋を被せてみた。かなしくなった。かつてすきだったひとからハーゲンダッツで餌付けされていたのだが、そのときに「この蓋、みのりちゃんのカメラのレンズのキャップになるんじゃない?笑」と言われて「じゃあ持って帰ってはめてみますね〜」と言って、蓋だけ大事に持って帰り、きょうと同じようにレンズの上に乗せてみて「はまらない!」とケラケラ笑った夜のことを懐かしみ、そして、ああ、ひょっとしてあのときのこれ、ばかにされていたのかもしれないな、と思ってしまった。なんか、すごい舐められてたんだなあ。まあ、わたしなんか、舐めるよなあ



ほんとにごめんね


・レンズキャップ喪失後②

買い直そう、と思って、数日後、カメラ屋さんに行くも、当たり前なのだがオールドレンズのOMマウント純正品の「新品」はもう売っていない。ことに気づかなかった。アホだ。ズーン。おじさまで溢れかえる激混みの用品コーナーやジャンクコーナーでわたしなりに探すもみつからず、店員さんに質問もできず、終盤からなにを探しているのかもわからなくなって、NikonとCanonの文字が視界でくるくるくるくるしはじめた。あきらめた。ネットで買おう。たとえ何円でもいい。お金で解決したい。つかれるとすべてお金で解決したくなる。お金なんてもうないのに。


・更新

お部屋の更新時期で、父に「火災保険、お金ないから安いプランのやつでいいかな」「でも万が一火事をもらっちゃったらどうしよう」と相談したら苦い顔をして「もらうというか、じぶんが起こしちゃったときね」「火の不始末、お香とか、煙草とか」と言われて、オ!こりゃかなり信用されてない!と思った、けど信用されているとかされていないとかではなくて、「じぶんは絶対に火事を起こさない」という過信があったわけで、そんなことは絶対にないわけで、そのための保険なわけで、父の言うとおりなので安くはないけど高くもない一般的なプランのやつで更新した。火災保険に限らず、なにかを考えたり決めたりするときはだれかに相談して意見をきくのがかなり大事というのはわかっているんだけど、相談自体にカロリーを使うことが多いし、いただいた意見を通してじぶんを客観視できなくてしんどくなっちゃうことがほとんどだから、むずかしい


・ハピネスな話題

近所の喫茶店に入って、クリームソーダを嗜んでいたら、後から入ってきたおじいちゃんもクリームソーダを発注されていてなんかうれしくなっちゃった、でもおじいちゃんはいつもクリームソーダを頼まれているとしたら、この感情の高まりはなんて自己中心的なんだろう、そもそも「おじいちゃん」って呼んでいいんだろうか


遊びのないクリームソーダ おいしかった


・「涙の国」のリリックビデオ、こっそり公開していたんだ

みてほしい



・「ひとりごつ」カバーチャレンジ、していたんだ

こっちもみてほしい(なぜかコメントオフにされている、バナナがだめなのか?わたしがだめなのか?)



・ということを5月に書いていた

気づいたら6月がはじまっていた。5月1日の日記に書いた「5月中に定職に就く」はぜんぜんかなっていないけれど、福祉さんのところへ行くことには成功したし、ネットでレンズキャップも買った(送料含め1100円だった、わたしは1100円を落としてしまったんだなと落ち込んだ)し、病院の先生には「働かないといけないと思っている、思っているつもりではいる、けれど働くことの周りには必ず人間がいて、人間がこわい」「不意に過去の失敗とか失言とか思い出して泣いてしまう」と、オイオイ泣きながらではあるけれどなんとか話すことができた。先生は「吉岡さんが悪いわけじゃなくて、今はまだ休む時期なのかもしれないね」「ちょっとずつ、人がいる環境にいられるようになりましょう」と言ってくれた、こんなに甘やかされていいんだろうか、やっぱりわたしは甘えているだけなのかもしれない、と思う。病院の先生やカウンセラーのひとやお友だちが提案してくれたことやアドバイスのほとんどができない、できない、いつまでもできないわたしはいったいいつまで社会のお荷物でいるんだろう、いつまで社会のお荷物でいれば気が済むんだろう、いったいどうなれたら「社会のお荷物ではない」と思えるんだろう、どうなれたら、どうなれる、どうにもなれない



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