わかってほしくないです

2022/03/03

日記

 気分の波はかなり低いところで上下に揺れる日々を過ごしている。元々明るいタイプではないけれど、最高の離婚の濱崎光生さんの言葉を借りれば「ちょうどよく元気なくやってるんだよ」という状態で常に生きている。今の日本、今の地球で生きていて、嘘みたいに明るく生きているひとのほうがわたしはこわい。長生きしたくないな。できるだけ早死にしたいな。長生きするお金がないもの。毎日そんな気分で生きている。

最近、近所のビルで飛び降り自殺があった。飛び降りたひとは亡くなって、下を歩いていて巻き添えになったひとは軽症で済んだらしい。

少し前の、共通試験での刺傷事件、会社で同僚の人との話題に上がって、「刺した方も刺された方もかわいそう」と言ったら「そんなのやさしすぎますよ!」「刺したほうが100パーだめ!絶対だめ!許さない!」というようなことを言われて、ああ、それはそう、それはほんとうにそうなんだけど。

わたしは飛び降りる側になっていたとしても、刺す側になっていたとしても、おかしくないなって思っている。

ものすごい剣幕でご指摘されたので、慌てて「ちゃんと罪を償って、償えないきれないかもしれないですけど、償ってほしいですね、償うしかないですよね」と言って、その話は終わった。正義を振りかざす第三者って、じぶんはいつでもマジョリティ側だと思っているひとって、意外と近くにもいるんだなあ、と思った。わたしも気をつけないと。

曲を作っても、写真を撮っても、文章を書いても、だれにも届いていない。撮らせていただいた方に申し訳ない。わたしといっしょになにかやってもほぼ得がない。少しは得をしてほしい。得しましたか?と聞くこともできない。わたしはダメダメだな。というモードに入ってしまった。卑屈なことは言わないように、わたしはわたしの魂を救うためにやっている、やりたいからやっている、と己に言い聞かせては、どんどんどんどん孤独になっていく。わたしはわたしの魂を救えていない。わたしが求めている「意味」は指先にさっと触れられたような、あるいは触れられていないような距離で、通り過ぎてゆく。わたしはチームプレイが苦手なふりをしてひとりでいたと思いたかったけれどそれは違っていて、チームプレイをできるほどの、ひとになにかを伝える力がわたしにはない。わたしがほしいと思う力が、わたしにはない。わたしの作るものには意味がない。「意味なんて求めるからつらいんですよ」とだれかは言う。そうでしょう。そうだと思う。あなたの正義はそうなんでしょう。でも、わたしはどうにか意味があってほしいと思う。だれかにとって意味があってほしいと思う。

わたしのインスタグラムを見たあるひと(複数)から、「落ち込んでるね」「わたし/おれでよければ話を聞くよ」と連絡がきた。わたしはそんなに、そんなに、落ち込んでいるように見えるのだろうか。だいたい、こんな世界で、こんなひどい世界で、希望を持って明るく生きよ、というほうが無理じゃないか。わたしは、本気で、心の底から本気で、じぶんの、日本の、世界の、地球の将来を憂いている。次の世代やその次の世代やその次の世代に、申し訳なくて申し訳なくてたまらない。希望がない。希望などもうない。毎日、毎日、絶望している。それを、だれかに話したところで解決するのか。しないじゃないか。もう特定のだれかにむかって特定の気持ちを話したくないのだ。きみは絶対最高の離婚見たことないだろ。こちとらちょうどよく元気なくやってるんだよ。いつか死ぬ日まであきらめて生きているんだよ。ああ、こんなもんか、幼いころ思い描いていた大人にはぜんぜんなれてないよな、でもこんなもんだよな、仕方ないよな、もう這い上がれないよな、そんな力ないよな、ってわたしなりになんとか折り合いつけて必死なんだよ。でも、そんなことを言っても、せっかくの好意を踏み躙るだけで、わたしにできることは、「ありがとう、今度つらくなったら話をしますね」とお返事をして、インスタグラムでのお気持ち表明は控えて黙ることにした。見つからないようにするしかない。平気なように見えるようにするしかない。心がまた少しずつポロポロポロポロと砕けていく気がした。

ショッキングなニュースがバンバン飛び込んでくる。あのときなにもしなかったひとになりたくない。わたしになにができるだろう。わからない。きっとなにもできない。ないお金をかきあつめて、ウクライナに寄付をした。こんなことしかできない。わたしには、こんなことしかできない。でも、これで合っているのかもわからない。わからない。志願兵に志願できない。戦争は嫌です。戦争だけは絶対に嫌です。ただここで、そこで、生きる、ひとびとの暮らしが、奪われてしまうことがほんとうに嫌です。わたしがウクライナにいたかもしれない。わたしがウクライナで生きていたかもしれない。わたしの大切なひとが、友人が、家族が。

わたしはタオル地の三角帽子をかぶったスイミング帰りと思しき子どもさんの姿がとてもすきなのだが、今日、会社からトボトボ歩いていたら、久しぶりにその姿の子どもさんがかけていった。そうして、マンションの玄関先まで迎えに来ていたお母さんとちいさな弟さんと合流するところを見て、目頭がギュンと熱くなった。きっとこんな風景が、いままさに奪われている場所がある。奪われているひとがいる。

薬の数が増えていく。細切れの夢を見るようになった。朦朧とすることも増えた。もともと金縛りに遭いやすい質だったのだが、どんどん金縛りに遭うようになった。金縛りに遭っていて目が覚めても金縛りに遭っていて、と、2階層で金縛りにあうことも増えた。わたしはいつかわたしが思う大丈夫になれるんだろうか。わたしが思う大丈夫ってなんだろう。昼も夜ものんびり暮らすことが夢なんだとチェウンが言っていた。そんなところへわたしには行けない。到底。

デスク周りのフィルム写真。だがぶれまくっていてなにが写っているのかはわからない。