うれしいと思えることがまだあってうれしい

2022/03/15

日記

ライブってあんなにたのしみにしていたのに、当日になるとすごく億劫になってしまうの、なんでなんだろう。日が暮れて、暗くなってから出かけることがあまり得意ではないのかもしれない。かと言って明るいうちから外へ出て、1日の締めにライブへ行くほどの体力が、気力が、わたしにはない。

先日は江沼郁弥さんと柴田聡子さんのライブを見にWALL&WALLへ。当日になるとやっぱり億劫な気持ちはあって(午前中に予定があったのもあるかもしれない)、体調(※精神の意味の体調)もあまり良くはなくて、それでもチケットを買ったから、がんばって出かける準備をして、かわいいシャツを着て、家を出た。メトロを乗り継いで、九段下で半蔵門線に乗り換えて、乗っているひとがみんなおしゃれで、不安に駆られはじめたところで表参道についた。表参道。たぶん初めて降りた。気になる整体屋さんやヘッドスパ屋さんはたくさんあるけれど表参道という名前に気圧されて来られたことはなかった。駅の出口を抜けたら、目の前がWALL&WALLで、「わあ、最高!」となった。下北沢や渋谷のように、ある特定のライブハウスに向かって街を延々と彷徨い続けて、目的のライブハウスをようやく見つけるという一連の動作がとにかく苦手で、駅の目の前にあって、迷いようがない立地の良さへの感動は新代田Fever以来だった。そして、なにより、スタッフさんがみなさん感じが良くて、外で待機列を捌いているひとも、入り口で整理番号を確認してくださるひとも、入り口を抜けて電子チケットの星ふたつに同時に指を2本当ててスライドさせてくださいと指示しているひとも、ドリンクチケットを交換するひとも、バーカウンターのひとも、どのひともみんな感じが良くて、一気にWALL&WALLという場所がすきになった。これまでライブハウスへ行くとどんなにライブが良くてもライブハウスのスタッフさんがアレで嫌な気持ちになる瞬間もたくさんあったから。

そしてライブの話。柴田聡子さんは初めて拝見したのだけれど、曲終わりの「センキュー」が素敵で、だいすきな「後悔」もやってくれて、すごく良かった。

そして江沼郁弥さんである。江沼郁弥さん。プレンティのころからだいすきで、できる限りライブには行くようにしていて、そうして毎回ライブへ行くたびに「ああ、良かったなあ、最高だったなあ、生きていて良かったなあ」と思いながら帰っていたけれど、この日の江沼郁弥さんは最強だった。最強だったのだ。いつだって江沼郁弥さんは最高だったけれど、最強だった。ずっと江沼郁弥さんを見てきて、きいてきて、初めて抱いた感情だった。最近の江沼郁弥さんのライブでは「アコギを弾かずにカホンのように叩く」というのがすごくすきだったけれど、この日はアコギはなくて、たぶんテレキャスターじゃなくてジャズマスターで、新曲も何曲かやられていたけれど、たぶん既存の曲も再構築されすぎていて、これまでずっと新譜や新曲が出るたびに一生懸命追いかけてきているにも関わらず、体感でわかる/知っている曲がほとんどなくて(ごめんなさい)、なのにとにかく気分がめちゃめちゃ良かった。「ライブに行ったら知っている曲がないとたのしめない」というフェーズから抜け出せた気がしてうれしかった。どういうシステムを構築して音を出しているのか知りたい。わたしは最初から最後までゆらゆら揺れていた。久しぶりにライブハウスでハートランドのビールを飲んで、ゆらゆらゆらゆら揺れていた。最後の曲が終わって、やっっと拍手ができて、アンコールはなくて、照明がついて、「マンボウのせいで延長ができなくてごめんなさい」という江沼さんのアナウンスまできいて、わたしはWALL&WALLを出た。そして、高ぶるきもちを抱えて大股で家まで帰った。

ああ、こういうきもちになれる夜があるから、こういうきもちにしてくれるアーティストがいるから、こういう、こういうきもちになりたくて、いつもライブのチケットを取って、当日、出かける時間が近づいて、面倒くさいなあ、億劫だなあ、おうちにいたいなあ、と思いながら、それでも、がんばって出かける準備をして、おうちを出て、ライブハウスへ行くんだなあ、と思った。WALL&WALLでのライブの後、江沼郁弥さんが新しいEPを出されることと、4月に東京と5月に滋賀でライブをやられることが解禁されていた。東京の会場はまたWALL&WALLで、それも良くて、でも、滋賀は大津市伝統芸能会館能楽堂という場所で、能楽堂での江沼郁弥さん!見たい!というきもちもあって、生まれて初めて住んでいる場所から遠くでやられるライブを見に行こうか悩んでいる。

インターホンの音が嫌いすぎて、最近、モニターのボリュームを絞れることを知って、ボリュームを絞ったら、郵便局のひとが来たことに気づけず、ネットで買ったフィルムを受けとりそびれた。フィルムが高くなりすぎて買えなくなっていたけれど、当面これ以上安い価格に戻る気もしなくて、今のうちに買っておくか、と思って、清水の舞台から飛び降りるきもちでポートラ160とプロイメージ100の5本パックをひとつずつ買った。点の撮影をしたいと思ってポートラ160は買ったのだが、今のところ撮影の予定はない。わたしが日中に労働をさせていただいている弊部署は基本シフト制で、本当は4月からわたしもシフト勤務になる予定だったのだが、仕事ができなさすぎて5月までカレンダー通りで働く運びとなったので、せっかくなので土日祝にしか会えないひとに会わないと、撮りたいひとにDMをしないと、と思いながら、今日もDMを送れず、また1日が終わっていく。わたしから誰かにDMやリプライを送れる日はいつか来るんだろうか。

最近通っている心の病気の先生に、「他人に悩みを話すことを求められる場面が多くて、なおかつ話すことでストレスを解消するように求められていて、それがすごく負担に感じる」「ひとりでもできるストレス解消の選択肢を増やしたいと思っている」みたいな話をしたら、「あったかいお茶を飲むとか、すきな匂いを嗅ぐとかでもいいですよね」と言ってくれて、ホッとして、泣きそうになった。昔、別の先生に「ボクシングとかやったらいいんじゃない?」と言われたことがあって、ぼんやりと、ああ、やっぱりわたしはボクシングをやらなきゃいけないんだろうか、と思っていた。ボクシングは良いと思う。きっとすごく良いと思う。でもわたし自身としてはボクシングをやりたいと思ったことが一度もなくて、百円の恋はすきだけど、ボクシングをやることで解消できるストレスよりも、ボクシングをやらなければいけないというストレスが新たに生まれそうで、それがとてもこわかった。ボクシング以外の、例えば、登山とか、キャンプとか、そういった、わたし自身があまり興味を持てない事柄でのストレス解消を提案されたら、きっとわたしはとてもかなしかったと思う。でも、あったかいお茶を飲むとか、すきな匂いを嗅ぐとか、それならわたしにもできそうで、うれしかった。

かわいい豆皿を2枚買った。食器を買うときはなんとなく2枚買ってしまうのだが、うちにひとが遊びに来たことはない。コロナのせいではない。たとえコロナが流行っていなくても、きっとうちには誰にも来ない。という卑屈な精神が良くない。DMやリプライすら送れないのだから「家」というパーソナルすぎる場所にひとを呼べるわけがない。それに、食器は2組ずつあるけれど、椅子は作業用のが1脚しかないから、もしこの状況で誰かが突然遊びに来ることになったら、立ってもらうか冷たいフローリングに直に座ってもらうことになる。スリッパだってじぶんの履く分しかない。先日コロナにかかって、母に「無症状でも後遺症があるひとがいるんだって、大丈夫?」と聞かれ、「毎日絶望している」と答えたら「それはコロナにかかったせい?」とさらに聞かれた。コロナにかかったせいで加速している感じはある。真相はわからない。後遺症が深刻な方に比べたら大した問題ではないと思う。

2022SSのパタゴニア、バギーズジャケットの形が変わってしまったのがさみしいけれど、なにもかもかわいくてうれしい。うれしい。

夜の道で出会した猫のフィルム写真。かなりぶれている。