あしたはきっとうつくしい日

2022/12/27

日記

酔うと手癖がわるくてあらゆるひとにラインし倒していたのが、いまは寝ぼけて朦朧とした状態で「わたしは起きている」と認識して手癖がわるくて気を許しつつあるお友だちに意味不明なラインや言うべきではないラインを送り倒していて、これだとまたあっさりお友だちを失うことになりかねない。気を引き締めてください。積み重ねてきたつもりの信用など積み重なっていないかもしれないという意識を持ち、積み重なっていたとしてもそんな信用は一瞬で崩れ落ちるという意識も持ち、なおかつわたしはアホで、病気で、服用しているくすりのおかげもあっておかしな行動をとりがちということを忘れないでください。自戒。


自戒ばかり書いていてひとのきもちを想像できないカス。あああ、くるしい。怒られたくない。怒らせたくない。心を掴みたいと思っているのに、心を掴みたくないと思ってしまう。じぶんの感情の激しすぎる浮き沈みについていけない。じぶんでもついていけないのだから、まわりにいるひとのことはもっともっと消耗させているんだろう。申し訳なくて胸が潰れる。息がくるしい。うれしくなっていいのか、たのしくなっていいのか、うれしいときにどんな顔をしたらいいのか、たのしいときにどんな顔をしたらいいのか、わからない。べつに過去にとてつもないトラウマがあるわけでもないし、父や母には人並みにはあいされて育ててもらったと思うし、わたしの意思を尊重してくれていると思う、時には腫れものに触れるように扱われるのが逆にくるしかった、くるしいときもある、でもそれはわたしのせいだから仕方ない。わたしはうれしくなっていいんだろうか、たのしくなっていいんだろうか、やさしいひとに「無理して笑わなくていい」と言われた、無理して笑うことはできても、無理せず笑うことがにがてだ、でもその言葉は確実にわたしのつっかえ棒になっていて、こうして何度も何度も思い出してしまう。いつまで経っても傷つき上手のままのわたし、このままでいいと思っている、このままがじぶんだと思っているわたし。もうこのままでは生きていけないことなどわかっているのに。もう死にたい死んじゃいたいと呪うし、死なないでと言ってほしいと呪う、最低なじぶんと出会うたびに、心が捩れる。でもそれもわたしのせいだし、わたし以外のだれかの心を捩らせてしまっているかもしれないのもわたしなのに。そんなことしていいわけがないのに。だれかに近づくたびに、これ以上近づくのがこわいと思う。わたしはあなたをそこなってしまうかもしれない。わたしはあなたを傷つけてしまうかもしれない。取り返しのつかない傷をつけてしまうかもしれない。傷つけてしまったとして、ごめんねって抱きしめてもいいんだろうか、それでいいんだろうか。この手で触れていいんだろうか。怒らせてしまったとして、また近づく勇気はわたしにはあるんだろうか。


たったひとりでたすかりたいのはそういうおそろしさがついてまわるから、でももういろんなひとの言葉がつっかえ棒になってしまっていて、たったひとりではたすかれないってこともわかっている。


たすけてほしい。ここから出してほしい。未来に会う約束をしてほしい。その日まで生きていたいって思っていたい

初夏の鴨川で眺めた風船の姿

■待ちあわせ/ハンバートハンバート